日本人にとってマグロは、伝統的な食文化を支える食材の1つであるだけでなく、私たち固有の「魚の生食」文化を代表する素材ともいえます。大人も子どももマグロを好む人は多く、寿司ネタとしても一番人気を誇っています。そんなマグロですが、江戸時代中期までは、下魚として扱われ、庶民の間でも不人気の食材の代名詞でした。今では信じられないお話です。そこで今回は、日本人の食生活の移り変わりをもとにマグロの歴史を2回に分けてご紹介します。
延享年間頃までは安魚とされ不人気だったマグロ
江戸時代中期の延享年間(1744~47年)頃までは、マグロは下魚として扱われていたようです。当時を記した「江戸風俗志」に、「サツマイモ・カボチャ・マグロは、甚だ下品にて、町人も表店住の者は、食することを恥じる」と残されています。魚の中でも脂が多いマグロは、鮮度落ちが速く、脂の酸化による油焼けを起こしやすいため、安魚として低所得者層のみの食材になっていたようです。
偶然の大漁から生まれた「漬け」がマグロ人気の発端に
その後、天保年間(1830~43年)頃になると、しだいにマグロの価値が見直され、その地位も上向いてきました。それでも江戸っ子気質の庶民の間には、安魚は食べないという風潮が残っていたようです。それを一変させたのが幕末の安政年間(1854~60年)になります。江戸の近海で、マグロの大漁が続き、価格が急落しました。ある寿司屋がそのマグロを大量に仕入れ、醤油に漬け込んで鮮度が落ちるのをごまかし、にぎり寿司で提供したところ大いに受け、大層な人気となりました。やがて「漬け」と呼ばれ、江戸っ子の好みの食べ方として定着し、マグロの立場が好転していったのです。
脂の多いマグロに醤油という日本古来の調味料が加わることで、お米(シャリ)と抜群の相性を持つネタが生まれたのは、まさに偶然の大漁がきっかけでした。この「漬け」によって、マグロの市民権が確立されたといえるでしょう。
それでも不人気だった大トロの歴史
明治から大正・昭和と時代が進むにつれてマグロの人気は不動のものになって来ましたが、それはあくまで赤身の部位の話で、今では最も価値があるとされる部位の大トロは実は不人気だったのです。芸術家であり日本最高の美食家とも称された北大路魯山人ですら、次のように語っています。「マグロの腹部の肉、俗に砂摺りのところは脂が多く、木目のような皮の部分が嚙み切れない筋があるため、細切りにして鍋で煮て食べるしかない」と評しており、生食には向かないとしています。
このように東京の伝統的な鍋料理「ねぎま」は、脂の多いトロを食べるために考案された料理だったのです。大トロの刺身やにぎり寿司に飛びつく、今の人たちからすれば、トロを敬遠していた戦前の日本の食生活は信じられないかもしれません。その大きな理由のひとつは、冷蔵技術が発達していなかった戦前までは、脂の酸化が速い部位(トロ)は油焼けで、品質が劣化しやすいため嫌われていたと思われます。
食生活の好みの変化がトロの人気を高める
戦後の高度経済成長時代を迎えた頃から、日本人の食生活は大きく変化してきました。いわゆる欧米型の食事が広まり、脂に対する嗜好も戦前までとは真逆の価値観が生まれて来たのです。牛肉もサシがたっぷり入ったサーロインなどの部位への人気が高まり、脂の旨みに対する欲求が高まっていきました。その中で、牛肉の脂よりも融点が低く、お口の中で、その旨みを存分に感じることができるマグロの脂にスポットライトが当てられたのです。1980年代後半からの大トロブームは、今なお、続いていますが、マグロが持つ脂の旨みを、舌で感じることができる日本人ならではDNAが大きく影響しているといえるでしょう。
冷凍技術の進歩がもたらしたマグロブーム
大トロの人気が沸騰したもう一方の理由は、冷凍技術の急速な進歩があります。マグロ漁の船内において、マイナス50℃の急速凍結が可能になったことで、新鮮な状態を保ったままの水揚げが容易になりました。加えて、漁港からも冷凍車の運搬、売場での温度管理の徹底と、マグロの脂が酸化する不安が無くなり、いつでも高品質な状態で食べることができるのです。こうして日本人の食文化の代名詞ともいえる「魚の生食」の最高峰として、大トロの刺身やにぎり寿司がその地位に上り詰めたのです。
マグロを巡るこれからの課題
しかし2000年代に入ると、マグロを取り巻く環境は大きな転換期を迎えます。クロマグロが絶滅危惧種の候補に上ったり、世界的にマグロの需要が増加したことによる資源の枯渇の問題などが発生してきています。後篇では、マグロを巡る今の状況を考えるとともに、これからの課題についてご紹介していきます。
【参考文献】
※ 『食材魚貝大百科~マグロのすべて』| 株式会社平凡社2007年刊