まもなくやってくる5月17日は「お茶漬けの日」です。江戸時代中期に煎茶の製法を発明した永谷宗七郎(宗円)の命日にあたり、その子孫が創業した食品メーカー「永谷園」が、「お茶づけ海苔」発売60周年を記念して2012年に日本記念日協会に申請登録をし制定されました。パパキャリ世代の皆さんだけでなく、私たち日本人なら誰もが食べ親しんできたお茶漬け。今回はその歴史をに迫ります。
お茶漬けのルーツは遣唐使の頃?
「遣唐使 後は茶漬けを くいたがり」…これは江戸時代に作られた川柳ですが、食の歴史の文献を辿ってみるとお茶漬けのルーツは確かに遣唐使の頃、平安時代から食されていた「水飯」や「湯漬け」に求めることができます。ご飯に水やお湯をかけた手軽な食事が、今のお茶漬けの原型だとされています。
「今昔物語集」には、三条中納言という人物が肥満解消のために医師の勧めに従って「冬は“湯漬け”、夏は“水飯”」を食べるという話が記されています。お茶漬けのルーツがダイエットにも用いられていたというのは興味深いですね。
織田信長も好んだ“湯漬け”
やがて鎌倉時代から室町時代と武家社会が成立すると、簡便な湯漬けは武士の間で愛好されるようになりました。戦国武将として名高い織田信長も湯漬けを好んでいたようで、桶狭間の戦いへの出陣前や、斎藤道三との対面時にも食していたとの記述が残されています。また酒を飲んだ時の締めに湯漬けを食べるというスタイルも、この頃から広まり、庶民の間にも普及するようになりました。
加えて、同時期にお茶も世間一般に普及が進んだため、湯漬けにお茶をかける習慣が根付いていきました。ただ、当時のお茶は色が赤黒く、味も香りも薄いものでした。現在のような緑茶でのお茶漬けの完成は江戸時代中期の煎茶の登場まで、今しばらく時間が必要でした。
煎茶の登場でお茶漬けの姿が確立
江戸時代中期、永谷宗七郎はその年の新しい葉だけを摘み取り、それを蒸し、その後に指で揉みながらホイロ(乾燥炉)の上で乾燥させるという煎茶の開発に成功しました。この緑茶の普及によりお茶漬けのおいしさが際立つようになり、庶民の食事にとって必要不可欠なメニューの地位を確立したのです。
当時の炊飯は一日一回が基本でした。江戸では朝にご飯に炊き、夜はお茶を沸かして冷やご飯にかけるスタイルです。一方、上方では昼にご飯を炊き、翌朝は冷やご飯にお茶をかけて食べるというスタイルが一般的でした。どちらも冷めたご飯を少しでもおいしく食べようとする庶民の知恵が伺えます。
一方、お茶漬けを「料理」として扱う「茶漬屋」が江戸に出現したのもこの頃です。江戸金竜山下の「奈良茶屋」が元祖と言われています。「おかずは香の物から食べ始めること」や「汁は最初に飲まないこと」など、お茶漬けけの食べ方にもさまざまな約束事も作られるようになりました。そして江戸時代後期には、各地に名物のお茶漬けが誕生するなど隆盛を極めていきました。
様々なお茶漬けが楽しめる今の恵みに感謝を
1952年(昭和27年)、永谷園が「お茶づけ海苔」を発売しました。戦後の混乱期から次第に復興してきた頃で、世の中は、空腹を満たすことからおいしく手軽に食べることを求めるスタイルになっていました。ご飯にお茶やお湯を注ぐだけでおいしいお茶漬けが食べられるとヒット商品となり、あらためて私たちの食卓にお茶漬けの手軽さとおいしさが見直されました。
また江戸時代後期から各地に登場した名物茶漬けの中から、「鮭茶漬け」や「鰍茶漬け」など今も全国区の人気を誇るものもあり私たちの味覚を楽しませてくれています。平安の頃から続いてきたお茶漬けの歴史に思いをはせながら、家族みんなでおいしいお茶漬けを食べてくださいね。
【参考文献】
※『ニッポン定番メニュー事始め』|彩流社2013年刊
※『たべもの起源事典』| 株式会社東京堂出版2003年刊